神勝寺

前日は松山に一泊させてもらって、早朝から、伊予鉄道バスで 7:00松山→8:40今治 瀬戸内バスで8:50→10:00福山と大移動。 せとうちバスはしまなみ海道を越えるから、車窓が美しい。

福山から更にトモテツバスで瀬戸農協前まで行き、徒歩20分ほどで神勝寺到着。なんとかたどり着けた。バス乗り継ぎの旅。

受付の建物 松堂 藤森照信設計。

研究室自体に施工を手伝ったねむの木学園を思い出した。

神勝寺は全体が豊かな庭園になっていて、天気がいいこの日は実にきもちがいい。

その一角にある 一来亭

千利休が晩年、京都の聚楽屋敷に建てたとされる一畳台目の茶室を、復元したと言われている。

ブリッジを渡って反対側の敷地へ。名和晃平プロデュースの、洸庭へ。

禅を体感するためのインスタレーション。

瞑想はこういうものを見えるのか。視覚に頼りすぎている今の時代において、視覚を入り口に、視覚じゃない感覚を呼び起こすことに感動を覚えた。30分ごとに入場可能。

仕上げはいわゆるこけら葺きでしょうか。

 

 

大分の新旧図書館

昨日からの大移動で

福岡→湯布院→中津(中津城、福沢諭吉記念館)→別府→大分へ。

アートプラザ見学。磯崎新の旧大分県立図書館を転用。

マッシブで閉じているが、外部の貫入がなかから感じられ、把握可能な空間に風通しの良さを感じた。

3Fギャラリーでは磯崎新の作品群の模型が常設で展示されている。入場無料。ミュンヘン現代美術館のコンペ案や、政治で頓挫したシュトゥットガルトの美術館案などが興味深い。

 

その後最近できた坂茂の新図書館へ。

こちらはガラスの箱で、視線的には開いているが、なかにいると閉じた印象がつよかった。

紙素材でできた家具類が美しい。

 

作るべき建築とは 所信表明を兼ねて

人は喜怒哀楽を持っている。広告は、喜や楽のほうに訴えようと切磋琢磨し、膨大の量のコンテンツを作り出す。しかし、感情の量は限られている。より目立つコンテンツを作れば作るほど、消費者は拒絶反応を示し、効果を得られなく来ている。

年々あまのじゃくになっていく消費者に対し、もはや情報を押し付けるのではなく、癒しを提供して感性的に好かれることが必要である。また、喜や楽に訴えるのではなく、怒や哀のように、直接イメージアップには結びつかないが、現代社会において刺激されることの少ないそれらの感情にうまく訴えることで、強い印象や思いがけない効果を得ることができる。西洋医学の対症療法のようなデザインから、漢方薬のような内側からじわっと効くデザインを目指すべきではなかろうか。

デザインも建築も、時代によってサイクルが存在し、要素を足し合わせて過剰な表現が好まれる時代が来ては、今度は逆に、要素を引き算して簡潔な表現が好まれるようになる。アップル製品は後者の極致ともいえる。しかしデザインのトレンドであり、簡潔なデザインだからそこにかかっている労力も少ないということは決してない。時代を反映した好みは変わり続けるが、デザインに付加されるエネルギーの総量は、社会の成熟度に常に比例するのである。

新体験と非日常は似て非なるものである。新体験は日常を切り捨て、驚きと興奮を与えるが、非日常は日常の延長にたち、感動と連帯を生む。大震災が人を結びつけたのも、大震災という非日常を通し、人々が日常を見つめなおしたためである。東京駅のプロジェクションマッピングが成功したのも、3Dを駆使したプロジェクション技術という新体験以上に、東京駅という見慣れた日常を非日常的空間に変貌せしめたためである。

もともと人々の居心地の良さに資するものとして一体的に存在していたデザインと建築が、いつの間にか情報とファサードという、遊離したばかりか、どちらが発信力が強いかを競い合うライバルのような状態になってしまっていた。建築の装飾は権威誇示のような情報発信力を備わっていた以上に、観る人に心の安らぎを与え、純粋な美として存在していたのではないだろうか。いまこそ建築とデザインを一体化しなおす時である。近年成功しているOOH(屋外広告)がその兆しを示している。