講評対象としてランドスケープを考える

日比谷ランドスケープデザイン展2019にゲスト講師として参加させていただいた。

建築の視点からコメントすることを求められていたとはいえ、ランドスケープを普段デザインわたしとして、どういうコメントをすればいいか迷いもあったが、実際の作品を拝見すると、建築とランドスケープにほとんど垣根がないことに改めて気付かされた。

あえて言えばランドスケープがよりピュアで建築的空間を表現しているようにも感じた。

時間軸をしっかり取り入れた設計もそうだし、純粋に美しいものを追求するデザイン手法、一見リアリティが無いように見えるデザインでも、少なくプレゼンテーションのところまではしっかり現出できているところを見ると、最終的にデザインを実現させるのは、それを作りたい情熱なのかなと、改めて思った。心象風景をリアリティを排除して作り出すこともデザインだし、その美しい成果物を、パッションをもって、なるべく忠実に実現させるのも、デザインだと思った。作るプロセスにもデザインは存在しないと本来はいけないはずである。しかし両者はあえて分けて考えていいのではないか、とも考えた。

場所をベクトルの集合として考えてみる。何も手つかずの場所はベクトルがない状態、何かの手を加えた(ベクトルを足した)状態が、人工的な状態だとすると、例えば商業建築はベクトルをひとの欲望を掻き立てる方向にベクトルをかき集めたような状態だし、いわゆる一般的な建築もその傾向は多少ならずある。

対してランドスケープのめざす方向は、たくさんベクトルが存在すれど、ベクトル同士が打ち消し合って、ゼロの場を作り出す、ということではないだろうか、と思った。

マンダラにふれる

観想の空間 マンダラ・尾道・曼荼羅

を読む。

代表的なマンダラ絵図を紹介した後、マンダラを意識した現代アートの試みが載せられていて、マンダラに関する考察の文章がいくつか載せられている。

 

マンダラのための原形態 植田信隆 が面白い。説明を読むとこのように理解できる。

エレメント=四大(地、水、空気、熱)地と水が根を生じ、水と空気で葉が繁り、空気と熱で花を咲かせる。桜は、真ん中のプロセスを通り越して根と花だけの状態で見えるから、余計大きなエネルギーを吸い上げる必要があり、そのため、上部がより高められた命を感じられ、低みにはより粗雑で死滅した物質があるように感じられる。満開の桜の花に、植物の本質である、生命の蕩尽をもっとも感じることができる。

建築としての曼荼羅(ひずめ あきお)の一節の抜粋

「なかでも曼荼羅はきわめて成熟した建築といえる。それは密教僧の住む家にほかならない。(中略)彼らは瞑想と称しているが、実は曼荼羅の内部空間に実際的に生活しているも同然だ。(中略)触覚的な視覚を有するものならば、実際に建築せずとも設計図の中で十分生活できるのである。(中略)当時知られている限りの幾何学を援用して、無数の要素が有機的に階層化され、グルーピングされる。(中略)もし空間がフラクタル幾何学を学んでいたら、現存するような曼荼羅の形式を取っていなかっただろう。」

スマートフォンは現代のマンダラとなったのか。いや、スマートフォンには奥がない。しかしすでに空間がある。建築が精神の住処であり続けるためには、もはや空間を追求するのではなく、無限の奥、スケールを横断するの拡大縮小性、をめざすべきではないだろうか。