ビットコインについて考える

最近訳あってビットコインに興味をもっている。

(正確に言うとビットコインの性質を持つ仮想通貨。ただ広義的な仮想通貨全般ではない。)

もちろんその非集権的な性質にも魅力を感じるが、

なによりProof Of Workという概念が、技術と表現のあるべき姿を物語っているような感じがしている。

ご存知のとおり、ビットコインを始めとする仮想通貨のマイニングは、与えられた計算パズルに対し、一番はやく解いたものが、報酬通貨を得るしくみである。10分に一回だけ、記帳管理をしてもらうと同時にマイニング報酬を配るが、多くの人に参加してもらいつつ、マイニング報酬を得る期待感を程よく持たせるため、計算パズルの難易度を調整している。簡単すぎると早い者勝ちになってしまうためコアな参加層が離れてしまうし、難しすぎると誰も時間内に解けない可能性が高くなるためである。ちなみにマイニング報酬は、一定スパンにおいては一定である。

マイニングには莫大な電気を消費する。作り出したのはビットコインという価値だが、それはみんなが信じて生まれる価値であって、物体として存在する価値ではない。

なんともそれはアートに似ている(学術研究や技術革新など人為的なことすべてに当てはまる気もするが)。

進展する技術をマイニングする人の持つコンピュータ、アーティストの数をマイニングに参画する人、与えられるビットコインを芸術の質、そのビットコインの価値をアートの価値に例えれば、合致する。

つまり、参画する母数が増え、使用する手法、表現方法が多彩になるに従い、投じるエネルギーは高まるばかりだが、生み出されるアートの絶対的な価値は、それぞれの時代変わらないはずである。ただしアートの商品としての価値は、ビットコインの取引価格のように、増えるばかりである。しかし、それは母数によって支えられた価値であって、アートが本来持つべき価値ではないはずである。ひとは、活動のエネルギーを、アートという理想の価値に変えている。そして、自分たちの作り出した価値を崇め、その価値を高めている。

アートが人間の欲望をピュアに表現しているものだとしたら、ビットコインは人間が作り出した、自分のシミュレーションかもしれない。

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