因島、尾道

今回は最終日を尾道ですごした。

尾道で暮らす 人々には独特な気風、大らかさ、自由さを感じた。

しかしその自由さは裏返せば、何でも受け入れるのではなく、取捨選択をする勇気を持つ先に得られるものであって、捨てることを躊躇しないドライな一面を併せ持つ人々のように感じた。都会の馴れ合いからはみ出し、尾道で好きなことに一途に暮らす人々がふと羨ましく思った。

 

今回は因島の旅館<ぽたりん>の作業がまずまず進んだ。

ぽたりんとは、気のおもゆくままに自転車ではしるポタリングから来ている名前で、しまなみ海道の中継地に位置するここ因島に、自転車の方が気軽に利用できるようにというコンセプトで作っている。

工事は一部業者さんにまかせているが、部分的にセルフビルドを施し、尾道の自活、独立の精神と接続するデザインを目指している。

今回はそのセルフビルドのなかでもメインとなるバーカウンター、洗面カウンター、風呂カウンターなどの造作家具をメインに進めた。

今後の個人的な課題や興味:

洗面カウンターの表の材料となる古材を探す。

船で宿にアクセスできるよう、船舶免許を持ってる人の協力を得るか、船ツアーをやっているところとコラボをする。

ちなみに、ネコノテ観光業(ネコノテパン工場と併設?)というところが船で島を周るツアーをやっているらしく、話を聞きに行ってみたい。

 

 

 

 

吹き抜けのイメージと現況

 

 

 

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洗面カウンターのイメージと現況

 

 

 

 

 

 

 

バーカウンターのイメージと現況

 

 

余談で今回のその他の収穫:

尾道のけん玉ロックカフェで、ブランコというけん玉の技を教えてもらい、練習した末できたのがかなり満足度高かった。ここの店主さんはけん玉のチャンピオンらしく、いまの国際的なけん玉ブームの火付け役の方らしい。

ちなみにここにあった椅子が面白い形状をしていた。丸太をチェンソーでシンプルに切れ目を入れると、嵌合する2つの椅子に早変わり。

 

 

寒星空

因島は街灯が少なく、まわりも大きな街がなくて空が明るく照らされることもない。

おまけに今日は新月で月の光もない。

さらに晴天とくれば星空を眺める絶好の日和。

寒さを我慢して星空を眺めては写真を取っていたらいつの間にか寒さを忘れていた。

そして気づかないうちに新しいセーターはアメリカセンダングサの種子(服に種子がくっつく植物の一種)だらけになっていた。

北の方向には北斗七星と北極星がくっきり見えている。

 

明るい空のあたりは尾道の街灯による照り返しとおもわれる。

ニュアンスの形状

新規住宅のプレゼン。

言葉で説明できる形状はやり尽くされているので、

言葉ほど明確じゃない、ニュアンスに近い形状操作を目指してやってみようかと。

そのあと、節分ということで、なんと恵方巻きまでごちそうになってしまった。

人生で初めて恵方巻きを頬張る。

しかも東南東のむきにむかって。

 

 

その後空港に直行し広島空港へ。

 

相原の家に家具が入った

相原の家の家具が置かれて、ぐっと生活感が生まれた。

一部家具は施主の手作り。

ほかの家具や食器、雑貨類は少しずつ中古ショップで買い足していったものが多いらしく、全体的にひとつの世界感をうまく作り出している。

 

猫の存在も相まって、時間がまったり流れる心地いい空間となっていた。

今回は造作家具を壁のどこでも増設できるように内壁側をすべて構造用合板としたが、構造用合板は透湿率が低く、そのせいか朝方には窓に結露が発生していたところがあった。すべて構造用合板とせずに何枚かをプラスターボードにするべきだったかもしれない。外壁側はダイライトなので透湿率が高いため躯体内結露の心配はまずない。

ちなみに漆喰塗りたてのときは漆喰から水が抜けていく過程の1ヶ月程度は特に結露が発生しやすいらしい。

 

 

 

丘の上の家

相原の家が竣工しました。

写真は写真家の田中さんにお願いした。

 

形状と素材をつなぐ肌理を、いわゆるテクスチャを作らなくても応用して作れることに気づいたのが大きな収穫でした。今回の場合ではそれは室内の粗い漆喰だったり、外装材の木の表情のばらつきだったり。

ディテールの作り込み具合を揃えたのも結果的にうまく行ったのかもしれな

施主の変更要望を、ポジティブに捉えて最後まで遂行したのが結果的にうまく行った。建築はなんだかんだいって、変更も含め、かけた時間だけよくなってくる。

いいお施主さんに巡り会えたことに感謝。

新年明けまして

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくおねがいします。

写真は年末の因島滞在で毎朝ルーティン化した朝焼け鑑賞時のものです。

同じアングルでも日によって表情は様々。

 

 

 

 12月27日

 

 

 

 

12月28日

 

 

 

 

12月29日

 

 

 

12月30日

 

 

 

 

12月31日

 

今年は事務所の移転と拡大をせねばと考えています。

 

メディアへのアクセスが簡単になった分、人と人が対面することがより信頼形成にとってより重要になってきていると感じています。

メディア対策よりもまず人によく会い、そして信頼してくれる方に、その要望を上回るものを確実に作っていけるよう、一つずつ作品を積み重ねていきたいと思っています。

 

因島セルフビルドの旅

因島に一週間ほどこもってセルフビルドをするという、貴重な体験をした。

体をここまでフルに動かすということも久々だし、メディアから(ある程度ではあるが)隔絶されて一週間過ごすというのも最近なかったことである。

何人かのお友達が東京や地方からわざわざ掛けてけてくれた。みんなでしばらくの共同生活。古民家を旅館に改造するのだが、泊まれる状態の部屋(仕上がっている部屋)が2つあって、みんなでそこで雑魚寝をした。

朝はチャイム(因島鏡浦町には朝6時にチャイムがなる。東京でやれば間違いなく苦情が来るであろう。)とともに起き、たまたま早起きできたメンバーと車で気ままに島を巡り、朝焼けを楽しむ。

 

朝九時くらいから太陽が沈む16時半くらいまではもっぱら作業。現場判断が多く、作るものや必要な材料もその場でどんどん決めていく。足りない材料があれば車で10分のホームセンターで買い足しては作業を続けるという連続。ホームセンターが近くにあったからこそこのような無計画なことができたと、幸運に感謝する。

 

昼ごはんは車を走らせていくつか定食屋が集まっている地域で食べる。候補こそ少ないが、どれも美味しくて量が多くてそして安い。

夜は島に一個しかない(知る限り)銭湯に行って、その日の気分でご飯屋さんを探して食べて、隙間風の入る部屋にみんなでこたつを囲み、寝るまで少しみんなで飲むという、懐かしくてもあるような、理想的な生活。豊かさとは何かを改めて考えさせられる。

因島や尾道からも興味を示していただいている方々が遊びにきたりと、少しも飽きない一週間だった。

谷川岳

谷川岳に登頂した。
朝5時半に車で出発して、早かった分渋滞にもそこまで巻き込まれず、9時過ぎに麓に到着。群馬と新潟の県境。結構遠くまで来たなと地図を見て改めて実感した。

谷川岳は標高が2000m未満にもかかわらず、高木がすくなく、高山植物のような植生帯に覆われていて、ビューが開けていて気持ちがいい。刻々と変化する風景のなかをあるき進む。

途中まで平坦だったが、途中から岩場がちになり、登りがいが増していく。休憩しつつ2時間弱で頭頂。

 

 

念願の山のてっぺんのラーメンも達成できていい休日だった。

竣工間際

外装がほぼ終わり、内部の形状もほぼ再現されて、あとは仕上げをするのみ。ここからがらりとまた印象が かわるでしょう。

量子の社会哲学1

 

量子の社会哲学-革命は過去を救うと猫は言う 大澤真幸

購入してしばらく放置していたこの本を再度読んでみる。

自然科学と、遠近法の関係について語っているあたりが興味深い。

古代、中世、近代の遠近法について述べている。古代は、角度の遠近法だった。各物体を見るときの目の動きの角度(球面上)を、平面に投影して作図するため、消失点ではなく、消失線が現れる。中世では、遠近法が影を潜め、述事する物体を並列的に並べ、その間に空間を設けている。空間の概念が芽生えたと説いている。ルネッサンス期に成立した近代の遠近法は、空間という概念が成立し、物体のあるなしに関係なく、空間に平面の膜を想定して、そこに投影することで作図される。遠近法の移行は、空間という抽象的な認識の獲得と並行している。

アリストテレスは、例えば土は下に、火は上に移動しようとし、水、空気はその間と、世界を天上界、地上界に分別して、認識している。これはまさに物体と、物体のない空間を分けて考える古代の遠近法と一致する。ニュートンの万有引力をはじめとする一連の自然科学の定理は、まさに世界を完全に均質的な空間としてみる、近代の遠近法そのものだった。そしてそれには、無限小の空間から外部を見る、世界の外部への撤退が必要とし、法則の外に立ち、客観視する視点を説いている。同じ時期の絵画にそれを示唆する試みがなされており、

ベラスケスのラス・メニーナスの、消失点に位置するカーテンを引く従士は実は画家自身であり、カーテンの向こうがその超越的な外部と対応している。

宗教の概念とも関連付けているあたりも面白い。

聖なるものや超越的なものへの厳格な追及が逆に世俗化への転換してしまう逆説、ヘーゲルが、「抽象的普遍から具体的普遍への転換の論理」と名付けているが、資本主義、科学革命、絶対王政の成立がいずれもその流れに乗っている。

ニュートンの唱える万有引力に説得性を持たせるために、つまり間に媒介のない任意の2つの物体の間に引力が発生ことを説明するために、そこに神の常なる介在を認めざるを得ないとした。それには、すべてを満たす「光」という暗黙の仮定が必要であった。これは一見、神は、どの瞬間においても、自然に働きかけているように見える。これは、デカルト的、初期設定する神という概念と対立するが、デカルト的因果論的、機械論的な言説に物理法則の補完を与えたのもニュートンである。神のちからである光が、のちに、ただの媒介する物体であるエーテルに、変更されていく。

プロテスタントの、もっとも敬虔とされるカルヴァン派の予定説の概念が、結果的に最も冒涜的とされる資本主義をもたらす駆動力となった、という矛盾をはらんでいる。全能の神であれば途中で修正を加える必要がなく、最初の設定だけで事足りるという概念がプロテスタントの根底にあるが、それが結果的に神の不在へつながるのである。

そして、世俗化する王の身体によって、王の政治的身体という、抽象的な普遍性が獲得される。ラス・メニーナスでは、見る人に王の目線に立たせることで、鏡に映る王(政治的身体である王)を認識させている。

つづく