作るべき建築とは 所信表明を兼ねて

人は喜怒哀楽を持っている。広告は、喜や楽のほうに訴えようと切磋琢磨し、膨大の量のコンテンツを作り出す。しかし、感情の量は限られている。より目立つコンテンツを作れば作るほど、消費者は拒絶反応を示し、効果を得られなく来ている。

年々あまのじゃくになっていく消費者に対し、もはや情報を押し付けるのではなく、癒しを提供して感性的に好かれることが必要である。また、喜や楽に訴えるのではなく、怒や哀のように、直接イメージアップには結びつかないが、現代社会において刺激されることの少ないそれらの感情にうまく訴えることで、強い印象や思いがけない効果を得ることができる。西洋医学の対症療法のようなデザインから、漢方薬のような内側からじわっと効くデザインを目指すべきではなかろうか。

デザインも建築も、時代によってサイクルが存在し、要素を足し合わせて過剰な表現が好まれる時代が来ては、今度は逆に、要素を引き算して簡潔な表現が好まれるようになる。アップル製品は後者の極致ともいえる。しかしデザインのトレンドであり、簡潔なデザインだからそこにかかっている労力も少ないということは決してない。時代を反映した好みは変わり続けるが、デザインに付加されるエネルギーの総量は、社会の成熟度に常に比例するのである。

新体験と非日常は似て非なるものである。新体験は日常を切り捨て、驚きと興奮を与えるが、非日常は日常の延長にたち、感動と連帯を生む。大震災が人を結びつけたのも、大震災という非日常を通し、人々が日常を見つめなおしたためである。東京駅のプロジェクションマッピングが成功したのも、3Dを駆使したプロジェクション技術という新体験以上に、東京駅という見慣れた日常を非日常的空間に変貌せしめたためである。

もともと人々の居心地の良さに資するものとして一体的に存在していたデザインと建築が、いつの間にか情報とファサードという、遊離したばかりか、どちらが発信力が強いかを競い合うライバルのような状態になってしまっていた。建築の装飾は権威誇示のような情報発信力を備わっていた以上に、観る人に心の安らぎを与え、純粋な美として存在していたのではないだろうか。いまこそ建築とデザインを一体化しなおす時である。近年成功しているOOH(屋外広告)がその兆しを示している。