北京について考える

都市のスケールについて考える。

自分が感じる表皮的な建築と、粒子的建築の差は何かと考えたとき、

カテナリーと放物線という、似た2つの曲線の成り立ちを借りれば説明する糸口が見つかるのではと思って、下記のような仮説を建ててみる。

カテナリー(懸垂曲線)と放物線
重ねても違いがほとんどわからない二つの曲線だが、
その違いこそがデザインの決定的な差異を生んでいるのではないかと考えている。

放物線はテクスチャマッピング
放物線は、x方向に等分布荷重がかかる。長い物差しを外部に置いて、雪が降り積もった時のたわみの形状をイメージする。
傾きが急な部分ほど、同じx方向単位長さにおける曲線が長くなるから、同じ長さの曲線における荷重は軽くなる。傾きが緩やか中心付近に比べ、傾きが急な周辺のほうが、同じ荷重が広い範囲に分散される。

荷重を二次元の画像に置き換え、曲線を二次元の投影面に置き換えてみる。四つ角をつかんだ風呂敷に、上から画像を投影するとイメージすればいい。投影された画像は、中心付近は歪みなく投影されるが、端っこのほうは、投影面が斜めになっているため、画像がゆがんで投影される。画像の
粗密が生まれるのである。

カテナリーは充てん
カテナリーの場合は、曲線の長さ分の等分布荷重がかかる。数珠のネックレスをイメージすればわかりやすい。傾きに関係なく、すべての個所からY方向に同じだけの重力がかかる。

同じように次元を上げ、風呂敷を例にとると、風呂敷にパチンコ玉を一層敷き詰めるのをイメージするといい。パチンコ玉はフラットな面に並べると、ハニカム形状に並ぶ。風呂敷に敷き詰めたパチンコも同じく、中心付近はハニカム形状が並ぶ。では周辺はどうか。画像投影の時のようにゆがんだハニカム形状になるかというと、そうはならない。五角形が発生したりして、形状を埋めるのにもっとも効率のいい形に落ち着く。
パチンコの玉は、粗密の違いなく、曲面をきれいに埋め尽くすように並ぶ。
しかし、画像をこのように、粗密を変化させず(歪みなく)曲面に並べようとしたら、困難である。

テクスチャマッピングが表現する面は、投影面としての面である。見る人も面の奥行きを気にせず、むしろ時間軸における変化を期待する。
それに対し、充てんが表現する面は、立体が存在する前提の表面である。つまり、ひとは表面を見、見えないはずの立体を想像できるのである。

北京のいま林立している建築はどちらかと言うとテクスチャマッピング的で、流動性、スピード感を帯びている。

しかし、そこには奥を感じる立体的な要素を感じられない。四合院に代表される北京の奥行きを取り戻すにはどうすればいいのだろうか。

オーバースケール都市北京

久々に北京にいった。

北京はファサード建築真っ盛り。

ただでさえ大きい街区に、表皮的ジェスチャを帯びた建築が陣取ることで、

完全にヒューマンスケールを逸脱した都市と化してしまっていた。

表皮的、細胞的ジェスチャではなく、堆積的、粒子的ジェスチャであれば、

小さいスケールを失うことなく、大きい都市スケールを表現できるのではないかだろうか。

北京はやはり小さいスケールを入れ子状に内包したフラクタル構造が似つかわしい。

 

光華路SOHO

 

光華路SOHO2

MADによる朝陽公園広場PJ

 

前門にあるMADの四合院PJも見させてもらった。

コンラッドホテル

人民日報の建物

六弦の本棚

手がけている  三軒茶屋のオフィスの家具を無事納入した。

音楽をこよなく愛する施主のために、

弦をイメージした本棚を提案した。

横材(弦)に太さをもたせることで、最低限の垂直要素で成り立つ、水平性の強い本棚を目指した。

横材に溝を掘り、CDやレコードをディスプレイする機能を兼ねた。

一枚板

鳥取県産一枚板を扱うTAICHIROさんの世田谷千歳烏山ショールームにおじゃました。

http://taichiro.co.jp/

重厚な一枚板が並ぶ空間は圧巻。

様々な樹種があり、それぞれの一枚板にストーリーがあるそう。

例えば地元に愛されていた巨木が、工事のためにどうしても切らなきゃいけなくなり、一枚板となって記憶を受け継いでいく。

一枚板は、巨木が生きた年齢と同じだけ長持ちするそう。細胞を傷めないように、15年ほど掛けて自然乾燥するとのこと。ウレタン仕上げとせず、基本オイル仕上げだそう。

木は東西南北があって、通常南は状態がよく、北はキメの乱れが見られるらしい。通常は均一のものにするために、東西に切って製材するらしいが、TAICHIROさんはあえて南北に製材し、木の良いところも悪いところも、ひっくるめてその木の個性を一枚の板として表現する。興味深いお話を伺えました。

Gallery Tomなど

日吉の保育園の工事がついに始まった。

現場で収まりの確認をしながら、まだ決まりきってないところを洗い出していく。リノベーションは現状との対話なので、どうしても設計図だけだと追いきれない部分が出てくる。

 

その後生研へ。村松研究室の今年の生研公開は窓についての研究「窓-時空間からの環境との会話」。窓の進化を樹形図にまとめている絵が興味深い。原初的には窓は外部への唯一の接続点であった(生誕に於いても、人類の歴史のおいての横穴的住居空間においても)。通風、換気、採光以外にも、ラスコーの壁画のように外部イメージの表出の場であった。そこでは視覚、嗅覚、聴覚などすべての感覚の、外部とのつながりを、窓が担っていた。

その後、窓の機能、構造は進化していく。それに連れ、通風、換気、採光は建築側が担い、外部イメージ的役割は風景画、襖絵のように、写実的な絵画という表現になっていった。窓の役割分担が、感覚器官の分離をもたらした。

現代のおいては、窓は意匠的な進化の枠を超えて、建築を溶かしつつある。どこまでが窓か、定義することができない建築も多々出てきている。一方で、スマホが代表する端末によって、視覚は能動性をすら必要とせず、見ることを導いてくれるのにまかれせば良い。視覚イメージの窓は、受動的な視覚・超視覚を担うところまで進化している。

 

駒場の裏を通って松濤へ。

しかし駒場裏にはおしゃれなカフェがいくつもできている。材木屋など変わらない風景の中にぽつんと佇んている。

学生のころ何度も外観を見ながら入ることがなかったGallery Tomに入ってみる。内藤廣さん設計のギャラリーである。

山形鋼の形状の鉄板が架け渡され、トップライトを分割する屋根の役割を果たしつつ、雨を流すドレーンにもなっている。

なんとも構造、意匠、機能、お互いの距離が近い、清々しい建築である。最近はこのような建築はますます見かけられなくなってきた。

水下の方では山形鋼にドレーンが接続されている。

竣工当初の写真と見比べて、色々検証したくなった。

 

その後半蔵門で打ち合わせ。平河町 日本料理 おだか。

小竹向原の保育園

最近保育園の設計に携わっていることもあり、小竹向原にある、まちの保育園を見学させてもらった。

コンテンツを規定せず、子供の興味の赴くままに任せ、大人はあくまでそれをサポートし、引き伸ばす。

ここまでは普通だが、いわば子供の興味を種に、まちのリソースを発見して引き出し、繋ぎ合わす。子供を媒介にすれば、ひとの心は動く。子供がふと目を向けるまちの一角には、忘れられていた宝が潜んでいる。

こどもたちで広がる経済活動。こどもの前では、みんな親切に振る舞う。子供をビジネスマンに育ててはならない。

 

 

 

 

作るべき建築とは 所信表明を兼ねて

人は喜怒哀楽を持っている。広告は、喜や楽のほうに訴えようと切磋琢磨し、膨大の量のコンテンツを作り出す。しかし、感情の量は限られている。より目立つコンテンツを作れば作るほど、消費者は拒絶反応を示し、効果を得られなく来ている。

年々あまのじゃくになっていく消費者に対し、もはや情報を押し付けるのではなく、癒しを提供して感性的に好かれることが必要である。また、喜や楽に訴えるのではなく、怒や哀のように、直接イメージアップには結びつかないが、現代社会において刺激されることの少ないそれらの感情にうまく訴えることで、強い印象や思いがけない効果を得ることができる。西洋医学の対症療法のようなデザインから、漢方薬のような内側からじわっと効くデザインを目指すべきではなかろうか。

デザインも建築も、時代によってサイクルが存在し、要素を足し合わせて過剰な表現が好まれる時代が来ては、今度は逆に、要素を引き算して簡潔な表現が好まれるようになる。アップル製品は後者の極致ともいえる。しかしデザインのトレンドであり、簡潔なデザインだからそこにかかっている労力も少ないということは決してない。時代を反映した好みは変わり続けるが、デザインに付加されるエネルギーの総量は、社会の成熟度に常に比例するのである。

新体験と非日常は似て非なるものである。新体験は日常を切り捨て、驚きと興奮を与えるが、非日常は日常の延長にたち、感動と連帯を生む。大震災が人を結びつけたのも、大震災という非日常を通し、人々が日常を見つめなおしたためである。東京駅のプロジェクションマッピングが成功したのも、3Dを駆使したプロジェクション技術という新体験以上に、東京駅という見慣れた日常を非日常的空間に変貌せしめたためである。

もともと人々の居心地の良さに資するものとして一体的に存在していたデザインと建築が、いつの間にか情報とファサードという、遊離したばかりか、どちらが発信力が強いかを競い合うライバルのような状態になってしまっていた。建築の装飾は権威誇示のような情報発信力を備わっていた以上に、観る人に心の安らぎを与え、純粋な美として存在していたのではないだろうか。いまこそ建築とデザインを一体化しなおす時である。近年成功しているOOH(屋外広告)がその兆しを示している。