とある音楽マンション

名古屋で友人の竣工したマンションがあるので見学しに行った。

まず印象的なのが外観。インナーバルコニーの穴から跳ね出しのバルコニーが突き出すという二重の構造になっていて、なかなかみたことがない。各住戸のバルコニーのずれに加え、この二重構造が外観により自由度を与えている印象。遮音性を確保した音楽マンションということで、どこか音符のような躍動感を感じた。

表に出しているサッシがないため、マンションらしくない外観に仕上がっているのも印象的だった。遮音性を高めるという制約をデザインに活かしているということか。

中は吹き抜けを中心に、一階はテナントと音楽スタジオ(イベント時はオープンに繋がる構造)、2階より上は各部屋が外廊下を挟んで配置されている。ガラスブロックとサインの一体感あるデザインもよかった。部屋の既製品の扉は少し浮いているように見えたが、コストが厳しい昨今、自分のプロジェクトもよく陥りがちな問題の為、悩ましいところである。

整理するよりも増やす側になりたい

2021年、あけましておめでとうございます。

ブログ、更新を怠っていたが、今年は移動中などの隙間時間も利用して、こまめに些細な内容を投稿できればと思う。

さて、年始のはじめにぼんやりとこのようなことを考えていた。
物事の評価軸をはっきり持っている人がいる一方で、多角的に物事を判断する人がいる。
なんとなく二種類の人種がいるかのように、はっきり分けられる。

グーグルは世界の情報を整理するという。整理された情報によって人々の利便性は上がっているが、一方でせわしさは変わらず、
生活が豊かになった感覚がない。
価格ドットコム、食べログのように商品、サービスを整理して、順位付けする格付けサイトに代表されるサービスは、
一見利用者を幸せにするが、評価軸を決めることで、軸に載らない良さが零れ落ちて、豊かさが失われていないか。

このように、リニアな評価軸しか持たなければ、効率化は図りやすいが、行き着く先に幸せは見えてこない。
このような評価軸に慣れた人は、人間をもこのように、リニアに評価し、その結果、単純な評価基準で劣っていたりと思い込み、
見下したり、差別したりする。

建築でも、効率的に作業を行おうと思えば、その流れの中で建築設計が作業になり下がり、
情報のふり落とされたつまらない建築になっていないか、感じることがある。
代わりに、理想的な建築は、どうしても効率化をそばに置いた先に生まれる。
そこには施主の理解ももちろん必要であるが、経済性の問題さえクリアできればおよその施主は了解してくれる。
建築は、豊かさを作っていくプロセスでありたい。経済原理と矛盾するところはアイデアで克服すればよい。
セルフビルドを導入すれば、体を動かすことで健康につながり、滞りがちの人々の交流も生まれる。

人間もゆたかなものであるという認識のもとで判断すれば、優劣でそもそも判断しなくなる。
そうすれば他人の様々な良さが見えてくる。そのような見方が結果的にただ比べるだけのせわしい豊かさから、日々見つかる平穏な豊かさへと変わり、
真の幸せにつながるのではないか。そもそも生命はエントロピー、つまり情報を増やすものであるものである。

整理する代わりに、情報を増やして豊かにする行いをしていきたい。

講評対象としてランドスケープを考える

日比谷ランドスケープデザイン展2019にゲスト講師として参加させていただいた。

建築の視点からコメントすることを求められていたとはいえ、ランドスケープを普段デザインわたしとして、どういうコメントをすればいいか迷いもあったが、実際の作品を拝見すると、建築とランドスケープにほとんど垣根がないことに改めて気付かされた。

あえて言えばランドスケープがよりピュアで建築的空間を表現しているようにも感じた。

時間軸をしっかり取り入れた設計もそうだし、純粋に美しいものを追求するデザイン手法、一見リアリティが無いように見えるデザインでも、少なくプレゼンテーションのところまではしっかり現出できているところを見ると、最終的にデザインを実現させるのは、それを作りたい情熱なのかなと、改めて思った。心象風景をリアリティを排除して作り出すこともデザインだし、その美しい成果物を、パッションをもって、なるべく忠実に実現させるのも、デザインだと思った。作るプロセスにもデザインは存在しないと本来はいけないはずである。しかし両者はあえて分けて考えていいのではないか、とも考えた。

場所をベクトルの集合として考えてみる。何も手つかずの場所はベクトルがない状態、何かの手を加えた(ベクトルを足した)状態が、人工的な状態だとすると、例えば商業建築はベクトルをひとの欲望を掻き立てる方向にベクトルをかき集めたような状態だし、いわゆる一般的な建築もその傾向は多少ならずある。

対してランドスケープのめざす方向は、たくさんベクトルが存在すれど、ベクトル同士が打ち消し合って、ゼロの場を作り出す、ということではないだろうか、と思った。

新年明けまして

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくおねがいします。

写真は年末の因島滞在で毎朝ルーティン化した朝焼け鑑賞時のものです。

同じアングルでも日によって表情は様々。

 

 

 

 12月27日

 

 

 

 

12月28日

 

 

 

 

12月29日

 

 

 

12月30日

 

 

 

 

12月31日

 

今年は事務所の移転と拡大をせねばと考えています。

 

メディアへのアクセスが簡単になった分、人と人が対面することがより信頼形成にとってより重要になってきていると感じています。

メディア対策よりもまず人によく会い、そして信頼してくれる方に、その要望を上回るものを確実に作っていけるよう、一つずつ作品を積み重ねていきたいと思っています。

 

北京カフェ事情

5日に北京到着。気温は40度(!)三里屯に直行しカフェの現場を確認。もう出来ていて営業も始まっていたので、光源が丸見えだったりして直さないとまずいところだけ直し、施工精度のところは施主と反省点をまとめ、次回に活かすということとした。

翌日、クライアントと北京のカフェ事情をリサーチした。視覚のインパクトを狙う店づくりは減り、素材の使い方やディテール、細かいこだわりを見せることで高級感やブランドイメージを演出する段階にきている印象がした。行列が特にできていたのが、一つは三里屯の喜茶。スターバックスのティストの店内に、お茶を見せる仕掛けを各所に施している。

 

 

 

 

喜茶

 

 

 

 

 

 

もうひとつは国貿近くの楽々茶。こちらはドライな素材感(テラゾー、ステンレス)と、色温度の高めの照明でファクトリーのような雰囲気を作り出している。

楽々茶

 

 

 

 

 

 

 

 

どちらにも感じられるのはスターバックスに対する対抗意識である。スターバックスを起点にジャンプを試みるか、スターバックスと逆の方向に行くかという違いはあるにせよ。またコーヒーとちがう中国茶で勝負するところに、意地を感じられる。

ランドスケープ卒計展

日比谷ランドスケープデザイン展2018の講評会のゲストクリティークを務める機会をいただきました。

ランドスケープデザインの卒業設計を意識して観るのが初めてだったので、講評は甚だ烏滸がましい感じでしたが、建築の卒業設計との違いに着目するとランドスケープデザインの特徴が見えてきた。

まずは時間を利用してデザインするという視点。植栽のレイアウトを、根の張り方や成長の仕方から、今後の地形に与える変化まで考慮をして、現時点の植栽のレイアウトにとどまらず、今後10年、20年後のランドスケープまで想像してデザインする、建築でやりたいけどなかなかできない、うらやましい手法と感じた。

もうひとつは、スケールが大きいこと、屋外や半屋外が多いことも影響するが、活動のためのデザインが多かった。建築が静の空間だとしたら、ランドスケープは動の空間といえるだろうか。逆に動の空間を扱う建物は、建築的発想でつくるよりも、最初からランドスケープ的発想でスタートしたほうが、開放的で呼吸する空間ができる気がした。

今年の抱負

明けましておめでとうございます。

新しい一年の抱負として、

事務所の生産性をあげる運営に加え、建築という行為の根源に立ち返り、建築を経済から解き放つ試みをしてみたいと考えている。

2つの切口があり、技術的不可避性と、歴史的不可避性である。

前者は、例えば代表される技術として、ブロックチェーンがある。

ブロックチェーン技術が、たくさんの貨幣とともに新たな経済圏を生み出している。いままで裕福なクライアントの下でしかいわゆる建築は成り立たなかったが、裕福さの概念が多様化することで、既存の貨幣を介しない、純粋な形の建築が可能になることもありうる。

労力、アイディアなどがそれ自体直接貨幣化することで、お金持ちしか建築が作れないという矛盾が解消されると期待できる。

 

後者は、前者とも関連するが、労力の消費装置としての建築が果たす役割についてである。

古来のピラミットなどの建築土木工事からオリンピックのスタジアムまで、建築はそれ自体が必要であるというと同時に、労力の消費装置としての役割を果たしていたため、作ることに意義があったといえる。

技術の発展は、そのコンスタントに作り続けるという行為を、サポートすると同時に、阻害するという両義的な役割を果たしてきた。

不燃化によって、火事で消失することも少なくなったし、耐震化によって地震のたび立て直すことも少なくなった。その代わりに、少々強引な社会的寿命という定義によって、スクラップ&ビルドが継続されてきた。当然、それが無駄遣いという批判を浴びてきた。それ自体は不可避な行為であるにも関わらず、である。

技術の発展は、本来は枝葉を伴うはずである。目指すべきモデルは、フラクタル、である。フラクタルのジュリアン模様のように、グローバル技術が根幹にありつつも、必ずローカルの分岐を作り出す。大きな技術の根幹を作り出せば、それに見合うほどの大きな表面積の枝葉(労力)を作り出す。

グローバル化は、そういったローカル性をなくしてきた。ローカル的な広がりのなくなったジュリアン模様は、枝葉のない一本の枯れた木となりつつかる。

地理的なローカル性の代わりに、経済のローカル圏が、その枝葉を取り戻すきっかけとなりうる。

技術と歴史の不可避性が、ブロックチェーンというキーワードで交差している。ローカルの経済圏を作り出すブロックチェーン技術に、可能性を感じる。その実証実験を、行っていきたい。

ビットコインについて考える

最近訳あってビットコインに興味をもっている。

(正確に言うとビットコインの性質を持つ仮想通貨。ただ広義的な仮想通貨全般ではない。)

もちろんその非集権的な性質にも魅力を感じるが、

なによりProof Of Workという概念が、技術と表現のあるべき姿を物語っているような感じがしている。

ご存知のとおり、ビットコインを始めとする仮想通貨のマイニングは、与えられた計算パズルに対し、一番はやく解いたものが、報酬通貨を得るしくみである。10分に一回だけ、記帳管理をしてもらうと同時にマイニング報酬を配るが、多くの人に参加してもらいつつ、マイニング報酬を得る期待感を程よく持たせるため、計算パズルの難易度を調整している。簡単すぎると早い者勝ちになってしまうためコアな参加層が離れてしまうし、難しすぎると誰も時間内に解けない可能性が高くなるためである。ちなみにマイニング報酬は、一定スパンにおいては一定である。

マイニングには莫大な電気を消費する。作り出したのはビットコインという価値だが、それはみんなが信じて生まれる価値であって、物体として存在する価値ではない。

なんともそれはアートに似ている(学術研究や技術革新など人為的なことすべてに当てはまる気もするが)。

進展する技術をマイニングする人の持つコンピュータ、アーティストの数をマイニングに参画する人、与えられるビットコインを芸術の質、そのビットコインの価値をアートの価値に例えれば、合致する。

つまり、参画する母数が増え、使用する手法、表現方法が多彩になるに従い、投じるエネルギーは高まるばかりだが、生み出されるアートの絶対的な価値は、それぞれの時代変わらないはずである。ただしアートの商品としての価値は、ビットコインの取引価格のように、増えるばかりである。しかし、それは母数によって支えられた価値であって、アートが本来持つべき価値ではないはずである。ひとは、活動のエネルギーを、アートという理想の価値に変えている。そして、自分たちの作り出した価値を崇め、その価値を高めている。

アートが人間の欲望をピュアに表現しているものだとしたら、ビットコインは人間が作り出した、自分のシミュレーションかもしれない。

中国の浸透膜

中国のIT系サービスの進化がめまぐるしい。

タクシーの運転手は、自分たちの国の国民は能力は他に劣らないが、なんでも中途半端に済ませてしまうことが最大の欠点だと、嘆いてた。

おそらくめんどくさがりなんだと思うが、その国民性のおかげか、すごい勢いで自動化、オンライン化を導入している。

おそらく便利なサービスはその便利さを裏返せばセキュリティが甘かったり、知らないうちに動静がトレースされていたりしているだろうが、それまた管理体制の免疫のあるの中国と相性がいいのかもしれない。

新しい技術が超えなければいけない既得権益が日本に比べて遥かに小さいというのももちろんひとつの理由だとおもう。既得権益があっても政府の方針で強引に突破できる。それが中国の強みであることを実感した。またライバルは政府が排除してくれる。googleのサービスは中国で全く使えない(大変困りましたが)。おかげて様々なサービスが中国独自に進化を遂げている。日本にももうすぐ進出する自動配車アプリ、wechatでの支払い、道端の貸自転車サービスなどなど。EV車じゃないとナンバープレートがおりにくくなった北京ではテスラなどの電気自動車がけっこう見かけた。環境改善と技術転換を図った強引な政策が功を奏した格好だ。

もっとも驚いたのが、串焼きマシーンまで自動化されていて、しかもなかなかおもしろい設計だった。

串の根本についている金具が歯車状になっていて、スライドする排煙ガラリに歯車が丁度嵌まるようになっていて、自動スライドに合わせて串が回転するのだ。

使い勝手がよければすごい勢いで普及するものである。道端の露天含め、Wechatで支払えない店は殆どなかった。財布無しで携帯だけで出かけても困らないかもしれない。同年代のひとはタクシーなどもう使わず、車の手配はひたすら配車アプリ 滴滴出行 だった。アプリなど使ってみた感じだと使い勝手がとてもいい。無駄がなく、ざっくりとしていて明快、という印象だった。

 

中国はそとの良い技術を受け入れて不必要な情報を遮断する面白い状況を形成している。いわばグローバル化の世界の中で浸透膜を作って自分のワールドを作っている。中国のスケールではそれはもうひとつのグローバルと呼んでいいかもしれない。そんなパラレルワールドを行き来できる存在で有り続けたい。

 

 

 

 

外付けGPU導入

 

最近VR環境を整えるべく、HTC_VIVEを購入した。

購入したのはいいが、ノートパソコンしかなく、動かない前提で繋いでみる。ちなみノートパソコンはnew XPS15、2016年のモデルでGPUはGeForce GTX 960m。CPUはi7-6700HQ 2.60Hz。

動いたのだが、GPU性能が追いつかず、フレームレートが落ちすぎて、VR酔を起こしてしまう。

そこでGPU性能を補うべく、方策を講じたのが、外付けGPUの導入。

別途デスクトップパソコンの導入も検討したが、まれに外のプレゼンでVR環境を持っていく必要を考え、かろうじて携帯できる大きさの外付けGPUとした。

AKiTiO Node にMSI GTX1080 GAMING X 8Gを組み込むこととした。

 

接続が苦労したのでメモ:

AKiTiO Nodeとノートパソコンはthunderbolt で接続。
VIVEとGPUポートはHDMIで接続。
GPUポートとノーパソをHDMIでつなぐと、おそらくノーパソのスクリーンが出力側として認識されないためか、うまくいかなかった。そのため、GPUポートとノーパソはそのまま繋げず、別のモニターとGPUポートをHDMIでつなげる。
スクリーン選択で、ノートパソコンを表示させず、セカンドスクリーンのみ、とした。

VIVEとノートパソコンのつなぎ方は説明書通り。

これで問題なくVRは作動した。
今のノートパソコンでなんとかVR環境を整えたいと考える際は一つの選択肢となるかもしれない。