講評対象としてランドスケープを考える

日比谷ランドスケープデザイン展2019にゲスト講師として参加させていただいた。

建築の視点からコメントすることを求められていたとはいえ、ランドスケープを普段デザインわたしとして、どういうコメントをすればいいか迷いもあったが、実際の作品を拝見すると、建築とランドスケープにほとんど垣根がないことに改めて気付かされた。

あえて言えばランドスケープがよりピュアで建築的空間を表現しているようにも感じた。

時間軸をしっかり取り入れた設計もそうだし、純粋に美しいものを追求するデザイン手法、一見リアリティが無いように見えるデザインでも、少なくプレゼンテーションのところまではしっかり現出できているところを見ると、最終的にデザインを実現させるのは、それを作りたい情熱なのかなと、改めて思った。心象風景をリアリティを排除して作り出すこともデザインだし、その美しい成果物を、パッションをもって、なるべく忠実に実現させるのも、デザインだと思った。作るプロセスにもデザインは存在しないと本来はいけないはずである。しかし両者はあえて分けて考えていいのではないか、とも考えた。

場所をベクトルの集合として考えてみる。何も手つかずの場所はベクトルがない状態、何かの手を加えた(ベクトルを足した)状態が、人工的な状態だとすると、例えば商業建築はベクトルをひとの欲望を掻き立てる方向にベクトルをかき集めたような状態だし、いわゆる一般的な建築もその傾向は多少ならずある。

対してランドスケープのめざす方向は、たくさんベクトルが存在すれど、ベクトル同士が打ち消し合って、ゼロの場を作り出す、ということではないだろうか、と思った。

新年明けまして

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくおねがいします。

写真は年末の因島滞在で毎朝ルーティン化した朝焼け鑑賞時のものです。

同じアングルでも日によって表情は様々。

 

 

 

 12月27日

 

 

 

 

12月28日

 

 

 

 

12月29日

 

 

 

12月30日

 

 

 

 

12月31日

 

今年は事務所の移転と拡大をせねばと考えています。

 

メディアへのアクセスが簡単になった分、人と人が対面することがより信頼形成にとってより重要になってきていると感じています。

メディア対策よりもまず人によく会い、そして信頼してくれる方に、その要望を上回るものを確実に作っていけるよう、一つずつ作品を積み重ねていきたいと思っています。

 

北京カフェ事情

5日に北京到着。気温は40度(!)三里屯に直行しカフェの現場を確認。もう出来ていて営業も始まっていたので、光源が丸見えだったりして直さないとまずいところだけ直し、施工精度のところは施主と反省点をまとめ、次回に活かすということとした。

翌日、クライアントと北京のカフェ事情をリサーチした。視覚のインパクトを狙う店づくりは減り、素材の使い方やディテール、細かいこだわりを見せることで高級感やブランドイメージを演出する段階にきている印象がした。行列が特にできていたのが、一つは三里屯の喜茶。スターバックスのティストの店内に、お茶を見せる仕掛けを各所に施している。

 

 

 

 

喜茶

 

 

 

 

 

 

もうひとつは国貿近くの楽々茶。こちらはドライな素材感(テラゾー、ステンレス)と、色温度の高めの照明でファクトリーのような雰囲気を作り出している。

楽々茶

 

 

 

 

 

 

 

 

どちらにも感じられるのはスターバックスに対する対抗意識である。スターバックスを起点にジャンプを試みるか、スターバックスと逆の方向に行くかという違いはあるにせよ。またコーヒーとちがう中国茶で勝負するところに、意地を感じられる。

ランドスケープ卒計展

日比谷ランドスケープデザイン展2018の講評会のゲストクリティークを務める機会をいただきました。

ランドスケープデザインの卒業設計を意識して観るのが初めてだったので、講評は甚だ烏滸がましい感じでしたが、建築の卒業設計との違いに着目するとランドスケープデザインの特徴が見えてきた。

まずは時間を利用してデザインするという視点。植栽のレイアウトを、根の張り方や成長の仕方から、今後の地形に与える変化まで考慮をして、現時点の植栽のレイアウトにとどまらず、今後10年、20年後のランドスケープまで想像してデザインする、建築でやりたいけどなかなかできない、うらやましい手法と感じた。

もうひとつは、スケールが大きいこと、屋外や半屋外が多いことも影響するが、活動のためのデザインが多かった。建築が静の空間だとしたら、ランドスケープは動の空間といえるだろうか。逆に動の空間を扱う建物は、建築的発想でつくるよりも、最初からランドスケープ的発想でスタートしたほうが、開放的で呼吸する空間ができる気がした。

今年の抱負

明けましておめでとうございます。

新しい一年の抱負として、

事務所の生産性をあげる運営に加え、建築という行為の根源に立ち返り、建築を経済から解き放つ試みをしてみたいと考えている。

2つの切口があり、技術的不可避性と、歴史的不可避性である。

前者は、例えば代表される技術として、ブロックチェーンがある。

ブロックチェーン技術が、たくさんの貨幣とともに新たな経済圏を生み出している。いままで裕福なクライアントの下でしかいわゆる建築は成り立たなかったが、裕福さの概念が多様化することで、既存の貨幣を介しない、純粋な形の建築が可能になることもありうる。

労力、アイディアなどがそれ自体直接貨幣化することで、お金持ちしか建築が作れないという矛盾が解消されると期待できる。

 

後者は、前者とも関連するが、労力の消費装置としての建築が果たす役割についてである。

古来のピラミットなどの建築土木工事からオリンピックのスタジアムまで、建築はそれ自体が必要であるというと同時に、労力の消費装置としての役割を果たしていたため、作ることに意義があったといえる。

技術の発展は、そのコンスタントに作り続けるという行為を、サポートすると同時に、阻害するという両義的な役割を果たしてきた。

不燃化によって、火事で消失することも少なくなったし、耐震化によって地震のたび立て直すことも少なくなった。その代わりに、少々強引な社会的寿命という定義によって、スクラップ&ビルドが継続されてきた。当然、それが無駄遣いという批判を浴びてきた。それ自体は不可避な行為であるにも関わらず、である。

技術の発展は、本来は枝葉を伴うはずである。目指すべきモデルは、フラクタル、である。フラクタルのジュリアン模様のように、グローバル技術が根幹にありつつも、必ずローカルの分岐を作り出す。大きな技術の根幹を作り出せば、それに見合うほどの大きな表面積の枝葉(労力)を作り出す。

グローバル化は、そういったローカル性をなくしてきた。ローカル的な広がりのなくなったジュリアン模様は、枝葉のない一本の枯れた木となりつつかる。

地理的なローカル性の代わりに、経済のローカル圏が、その枝葉を取り戻すきっかけとなりうる。

技術と歴史の不可避性が、ブロックチェーンというキーワードで交差している。ローカルの経済圏を作り出すブロックチェーン技術に、可能性を感じる。その実証実験を、行っていきたい。

ビットコインについて考える

最近訳あってビットコインに興味をもっている。

(正確に言うとビットコインの性質を持つ仮想通貨。ただ広義的な仮想通貨全般ではない。)

もちろんその非集権的な性質にも魅力を感じるが、

なによりProof Of Workという概念が、技術と表現のあるべき姿を物語っているような感じがしている。

ご存知のとおり、ビットコインを始めとする仮想通貨のマイニングは、与えられた計算パズルに対し、一番はやく解いたものが、報酬通貨を得るしくみである。10分に一回だけ、記帳管理をしてもらうと同時にマイニング報酬を配るが、多くの人に参加してもらいつつ、マイニング報酬を得る期待感を程よく持たせるため、計算パズルの難易度を調整している。簡単すぎると早い者勝ちになってしまうためコアな参加層が離れてしまうし、難しすぎると誰も時間内に解けない可能性が高くなるためである。ちなみにマイニング報酬は、一定スパンにおいては一定である。

マイニングには莫大な電気を消費する。作り出したのはビットコインという価値だが、それはみんなが信じて生まれる価値であって、物体として存在する価値ではない。

なんともそれはアートに似ている(学術研究や技術革新など人為的なことすべてに当てはまる気もするが)。

進展する技術をマイニングする人の持つコンピュータ、アーティストの数をマイニングに参画する人、与えられるビットコインを芸術の質、そのビットコインの価値をアートの価値に例えれば、合致する。

つまり、参画する母数が増え、使用する手法、表現方法が多彩になるに従い、投じるエネルギーは高まるばかりだが、生み出されるアートの絶対的な価値は、それぞれの時代変わらないはずである。ただしアートの商品としての価値は、ビットコインの取引価格のように、増えるばかりである。しかし、それは母数によって支えられた価値であって、アートが本来持つべき価値ではないはずである。ひとは、活動のエネルギーを、アートという理想の価値に変えている。そして、自分たちの作り出した価値を崇め、その価値を高めている。

アートが人間の欲望をピュアに表現しているものだとしたら、ビットコインは人間が作り出した、自分のシミュレーションかもしれない。

中国の浸透膜

中国のIT系サービスの進化がめまぐるしい。

タクシーの運転手は、自分たちの国の国民は能力は他に劣らないが、なんでも中途半端に済ませてしまうことが最大の欠点だと、嘆いてた。

おそらくめんどくさがりなんだと思うが、その国民性のおかげか、すごい勢いで自動化、オンライン化を導入している。

おそらく便利なサービスはその便利さを裏返せばセキュリティが甘かったり、知らないうちに動静がトレースされていたりしているだろうが、それまた管理体制の免疫のあるの中国と相性がいいのかもしれない。

新しい技術が超えなければいけない既得権益が日本に比べて遥かに小さいというのももちろんひとつの理由だとおもう。既得権益があっても政府の方針で強引に突破できる。それが中国の強みであることを実感した。またライバルは政府が排除してくれる。googleのサービスは中国で全く使えない(大変困りましたが)。おかげて様々なサービスが中国独自に進化を遂げている。日本にももうすぐ進出する自動配車アプリ、wechatでの支払い、道端の貸自転車サービスなどなど。EV車じゃないとナンバープレートがおりにくくなった北京ではテスラなどの電気自動車がけっこう見かけた。環境改善と技術転換を図った強引な政策が功を奏した格好だ。

もっとも驚いたのが、串焼きマシーンまで自動化されていて、しかもなかなかおもしろい設計だった。

串の根本についている金具が歯車状になっていて、スライドする排煙ガラリに歯車が丁度嵌まるようになっていて、自動スライドに合わせて串が回転するのだ。

使い勝手がよければすごい勢いで普及するものである。道端の露天含め、Wechatで支払えない店は殆どなかった。財布無しで携帯だけで出かけても困らないかもしれない。同年代のひとはタクシーなどもう使わず、車の手配はひたすら配車アプリ 滴滴出行 だった。アプリなど使ってみた感じだと使い勝手がとてもいい。無駄がなく、ざっくりとしていて明快、という印象だった。

 

中国はそとの良い技術を受け入れて不必要な情報を遮断する面白い状況を形成している。いわばグローバル化の世界の中で浸透膜を作って自分のワールドを作っている。中国のスケールではそれはもうひとつのグローバルと呼んでいいかもしれない。そんなパラレルワールドを行き来できる存在で有り続けたい。

 

 

 

 

外付けGPU導入

 

最近VR環境を整えるべく、HTC_VIVEを購入した。

購入したのはいいが、ノートパソコンしかなく、動かない前提で繋いでみる。ちなみノートパソコンはnew XPS15、2016年のモデルでGPUはGeForce GTX 960m。CPUはi7-6700HQ 2.60Hz。

動いたのだが、GPU性能が追いつかず、フレームレートが落ちすぎて、VR酔を起こしてしまう。

そこでGPU性能を補うべく、方策を講じたのが、外付けGPUの導入。

別途デスクトップパソコンの導入も検討したが、まれに外のプレゼンでVR環境を持っていく必要を考え、かろうじて携帯できる大きさの外付けGPUとした。

AKiTiO Node にMSI GTX1080 GAMING X 8Gを組み込むこととした。

 

接続が苦労したのでメモ:

AKiTiO Nodeとノートパソコンはthunderbolt で接続。
VIVEとGPUポートはHDMIで接続。
GPUポートとノーパソをHDMIでつなぐと、おそらくノーパソのスクリーンが出力側として認識されないためか、うまくいかなかった。そのため、GPUポートとノーパソはそのまま繋げず、別のモニターとGPUポートをHDMIでつなげる。
スクリーン選択で、ノートパソコンを表示させず、セカンドスクリーンのみ、とした。

VIVEとノートパソコンのつなぎ方は説明書通り。

これで問題なくVRは作動した。
今のノートパソコンでなんとかVR環境を整えたいと考える際は一つの選択肢となるかもしれない。

 

 

北京について考える

都市のスケールについて考える。

自分が感じる表皮的な建築と、粒子的建築の差は何かと考えたとき、

カテナリーと放物線という、似た2つの曲線の成り立ちを借りれば説明する糸口が見つかるのではと思って、下記のような仮説を建ててみる。

カテナリー(懸垂曲線)と放物線
重ねても違いがほとんどわからない二つの曲線だが、
その違いこそがデザインの決定的な差異を生んでいるのではないかと考えている。

放物線はテクスチャマッピング
放物線は、x方向に等分布荷重がかかる。長い物差しを外部に置いて、雪が降り積もった時のたわみの形状をイメージする。
傾きが急な部分ほど、同じx方向単位長さにおける曲線が長くなるから、同じ長さの曲線における荷重は軽くなる。傾きが緩やか中心付近に比べ、傾きが急な周辺のほうが、同じ荷重が広い範囲に分散される。

荷重を二次元の画像に置き換え、曲線を二次元の投影面に置き換えてみる。四つ角をつかんだ風呂敷に、上から画像を投影するとイメージすればいい。投影された画像は、中心付近は歪みなく投影されるが、端っこのほうは、投影面が斜めになっているため、画像がゆがんで投影される。画像の
粗密が生まれるのである。

カテナリーは充てん
カテナリーの場合は、曲線の長さ分の等分布荷重がかかる。数珠のネックレスをイメージすればわかりやすい。傾きに関係なく、すべての個所からY方向に同じだけの重力がかかる。

同じように次元を上げ、風呂敷を例にとると、風呂敷にパチンコ玉を一層敷き詰めるのをイメージするといい。パチンコ玉はフラットな面に並べると、ハニカム形状に並ぶ。風呂敷に敷き詰めたパチンコも同じく、中心付近はハニカム形状が並ぶ。では周辺はどうか。画像投影の時のようにゆがんだハニカム形状になるかというと、そうはならない。五角形が発生したりして、形状を埋めるのにもっとも効率のいい形に落ち着く。
パチンコの玉は、粗密の違いなく、曲面をきれいに埋め尽くすように並ぶ。
しかし、画像をこのように、粗密を変化させず(歪みなく)曲面に並べようとしたら、困難である。

テクスチャマッピングが表現する面は、投影面としての面である。見る人も面の奥行きを気にせず、むしろ時間軸における変化を期待する。
それに対し、充てんが表現する面は、立体が存在する前提の表面である。つまり、ひとは表面を見、見えないはずの立体を想像できるのである。

北京のいま林立している建築はどちらかと言うとテクスチャマッピング的で、流動性、スピード感を帯びている。

しかし、そこには奥を感じる立体的な要素を感じられない。四合院に代表される北京の奥行きを取り戻すにはどうすればいいのだろうか。

オーバースケール都市北京

久々に北京にいった。

北京はファサード建築真っ盛り。

ただでさえ大きい街区に、表皮的ジェスチャを帯びた建築が陣取ることで、

完全にヒューマンスケールを逸脱した都市と化してしまっていた。

表皮的、細胞的ジェスチャではなく、堆積的、粒子的ジェスチャであれば、

小さいスケールを失うことなく、大きい都市スケールを表現できるのではないかだろうか。

北京はやはり小さいスケールを入れ子状に内包したフラクタル構造が似つかわしい。

 

光華路SOHO

 

光華路SOHO2

MADによる朝陽公園広場PJ

 

前門にあるMADの四合院PJも見させてもらった。

コンラッドホテル

人民日報の建物